都会から一歩も遠出の経験もなく、せいぜい修学旅行での関西が唯一の身分に呉行きを命じられ、世
間での荒波に揉まれたこともない身に未知への不安とも併せ新しい世界への展開にとうとうお鉢が廻
ってきた。
日新製鋼として、中国地方として最初の高炉を含めた一貫製鉄所の建設である。
未だ冬の名残の3月にコートを着て、身の回りの生活用品と書類を満載に詰め込んだバックを背負い、
未知の世界への不安と期待感が交錯しながら、九州方面行きの夜行寝台車に乗り込んだ。
未だ新幹線が誕生する前で、寝台特急が旺盛を究め、華やいだ時期でもあった。
狭い寝台車に何度も寝返りをうつも、寝台を通して伝わる車輪のコトコト音が、気になり、多少昂奮して
いることもあって、中々寝つけないまま、早朝広島に着いていた。ここから山陽本線から蒸気機関車の
呉線に乗り換え、瀬戸内の海岸線を臨みながら呉に辿り着く。
窓を開けると気持ちが良いがトンネルに入ると容赦なく降り注ぐすすで顔、ワイシャツを汚したことや、あの
独特な石炭の匂いは忘れられず、一地方線は未だ未だ現役のバリバリで走っていたのである。

写真のような静かな瀬戸内海に面する、製鉄所での熱き戦いが始まる。
会社から当初二人が派遣され、関連会社の方と併せて7、8名の混成部隊であったが、建設のピークが
過ぎたころ1名が帰社し、そのまま一人残され、熱い瀬戸内を夏を凄し、帰ったのが何と9月であった。

出張費は長期経過に減額されるものの、終日建設に追われる連続で、現場と旅館の往復に修行僧のよう
な単調な禁欲世界に、何とか滞在費で賄えた。
帰社してから薄給ながらも半年分の給与と賞与を纏めて貰ったあの札束の感覚は今でも忘れられない。
毎月、此れ程貰えればとも思ったが、羽振りが良かったのは後にも先にもこの日限りであった。